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本家と別家

 先回、『ふれ太鼓壱岐』1991年11月28日(木)号に載った「壱岐島内平戸藩諸士禄高」(15石まで:壱岐郷土館調べ)をアップしました。そして、わが先祖S家は平戸藩士であったことを書きました。

 今回は、その一覧の備考欄に付記してあった「別家」について考察――です。この「別家」を追求していくと、いくつか局面が見えてきます。

 以下、個人的な実例から入ります。先に掲げた一覧に以下のようにあります。話題はざっと、幕末、明治初期のことの、壱岐の一断面です。

長嶺村  S(名字)住右衛門
     二十石迄給タル家
     天祥公御取立
     旧家S和平別家
     
1 住右衛門は、小生から数えて、6代目に当たります。1853年、ペリーが浦賀に来た年に死亡しています。

2 住衛右衛門は、一覧によると「旧家S和平別家」ということです。言い換えるとわが家は、「S
和平本家」の「別家」ということになります。

3 幼少時、盆前には一家総出、1日かかりで、大きな山蚊にさされながら墓掃除をしていました。終わったら祖母や親父、おふくろは、ほかにも先祖の墓があるとかで、墓参りに行っていました。その墓はかなり遠くにあるとかで、子どもたちが参ることは、免じられていました。

4 どうらや「S和平本家」と関係がありそうです。その本家というのは、勤めをおえて平戸(本庁)に帰藩したそうです。その際、墓地の永代供養をお願いするかわり、家・屋敷を進呈したそうです。その「本家」関係の墓が、佐古ん辻と沼津中学裏にあると聞いておりました。

5 実は永代供養をお願いしました当主K氏は、現在、(最後の町議選挙トップ当選)市議をされております。

6 そこで、メールでサシで交信しました。K氏からの回答は、以下の通りでした。氏の許可をとっていませんが、部分を引用させていただきます。
  
≪我が家の近くに「開き屋敷」という地名の畑がある。ばあさん(平成11年に他界)に聞いたところによると、そこには屋敷があったそうで、その跡地をK家が譲ってもらい、その代わりにS家の古い墓を管理するようになった。その墓は馬場の辻(※わが家では佐古ん辻と言っているが同じ場所のようだ)にあり、ばあさんはS家の墓といって、盆正月には必ず清めていた。
  
 現在、ぼくが田んぼとして耕作している農地の名前が「ひらぎ屋敷」というところです。昔の交 通の要衝になっていた場所にある田んぼで、「ひらぎ屋敷」の跡地であるようです。
 その田んぼのとなりが僕の母の実家で、代々爾自神社(有安の氏神、東風岩のあるところ)の神官をしていたM氏の家があります≫

http://www.genbu.net/data/iki/niji_title.htm

※幕末・明治初期の壱岐の神道について後に言及の予定

7 なんと、小生が聞き及んだ内容とまったく同じだったのです。特に「開き屋敷」という名前が、まさに、ぴったしカンカン。我が家の「門名」は,先に紹介したように「ひらぎ」と言います。近所では我が家のことを実名で呼ばず、「ひらぎ」と言います。ご当主は耳から伝え聞き、「開き屋敷」と記憶されていたのです。100年の歳月を越えて同じ事実が符合したのです。

8 実は今年(2001)5月末、帰郷しました。そして、この市議・K家に供養していただいている墓を初めて訪れました。そこへなんと偶然、市議をしているご当主が現れたのです。小生とは10歳くらいの年齢差、初対面です。100年を越えて握手した次第です。さっそく「ひらぎ屋敷跡」の田を教えていただきました。

9 その年は沼津小学校の実験田植え田になっているとかで、父兄とおぼしき青年たちがトラックターを田に入れて整地中でした。なるほど交通の要衝に立地しているらしく、舗装された大きな道が縦断しており、そのため狭くなったのでしょう。母が記憶している面積よりも、かなり狭くなっているようです。
  
10 さて、今回帰郷して判明したことは「S和平」なる人物は、100石を取るまで昇進し、平戸本庁に帰藩したそうです。壱岐の最高石高は80石ですから、よほどの功績があったのでしょう。本来20石だったわが家筋が100石に昇進するにはどんな功績があり、どんな方法で実現したのでしょう。

11  ということは、わが家の本家筋が平戸にいるということです。いまでは、まったく音信はありませんが……。いつか調べてみたいと思っていますが……。先に掲げた「壱岐島内平戸藩諸士禄高」一覧には、「別家」の家がいくつかありますから、平戸に別れた先祖がある家があるということです。
  
12 小生から4代目の曾祖父(ひいじいさん)は、当時、壱岐で高80石の横田家から養子に来て、明治3年、東京に勤務中、事故死しています。先の一覧を知り、こんなことがあるのかなと思いました。祖母の実家は諸吉のU家で、わが家より1石多い家です。当時、壱岐といえど、それなりに格式があったでしょうし、同じ格式の家同士の婚姻しか許されなかったはずです。和平が100石取りに昇進したと聞き、少しは符合・納得しました。

13 このあと、三富朽葉の嫂(あによめ)であった小生の曾祖母(ひいばあん)八重の墓参に行きました。夫の浄が神官をして渡良の村社国津神社は予想外に大きく立派でした。三富家の裏山にある墓地には朽葉の墓、三富家奥津城はありましたが、そこには浄・八重夫妻の名前はありませんでした。


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