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連載第1回

新連載 島に生きる 季語と暮らす

春一番      
              
                       
 私が両親のふるさと、玄界灘に浮かぶ島、壱岐(現長崎県壱岐市)の地を初めて踏んだのは、一九四七(昭和二二)年二月十五日、,勝本港、小雪の舞う日であった。

 当時、私は四歳、背中のリックサックには兄の遺骨が入っていた。母は二歳の病弱な弟を背負い、手には必要最小の荷物を持っていた。父は捕虜にとられて音信不通。文字通り命からがら中国東北部・大連からの母子三人の帰郷、引き揚げであった。
父は幸いその一年後に無事帰国するが、その一週間前に弟は病死していた。

 私は高校までこの島で過ごした。以後、こんにちまで関東暮らしとなったが、後年、俳句を始めてみると、やや大袈裟だが、壱岐では季語の只中に暮らし、季語を身をもって体験しながら育っていたのだと気づいた。私にとって俳句を詠むということは、とりもなおさず壱岐での少年時代を呼び起こすことであったのだ。

 当時の子供たちは、一家にとって重要な働き手であった。学校から帰ると、手伝いや仕事が山ほど待っていた。例えば炊事場にある大きな水瓶、半斗甕(はんどかめ)に水を満たさなければならない。

 三十米離れた釣瓶井戸から水を汲み桶に入れ、天秤で運ぶ。

 風呂を沸かすとなると更に三架以上の水が要る。また裏山に行って枯木を拾ってくる。ランプの火屋(ほや)を磨く。 石油が切れていれば徒歩で片道二キロの店まで買いに行く。
 
 猫の手も借りたいほど忙しい、田植え、稲刈り時期になると、小学校、中学校は全校休みの「農繁休暇」となった。勉強する子よりも手伝い、仕事をする子の方がよい子だった。

 さて、俳句を始めて、壱岐には誇るべきことが二つあることを知った。
 一つは、河合曾良(1649~1710)の終焉の地であること。幕府の巡見使随員として佐賀・呼子から壱岐へ来島し、更に対馬へ渡る途中、壱岐の北部、勝本で客死する。享年六二。

 記念句碑には、その年の歳旦吟「春にわれ乞食やめても筑紫かな 曾良」と記されている。やはり師・芭蕉の晩年の西国行脚の夢が後押しをしたようだ。

 二つ目は、季語「春一番」の発祥の地であることだ。歳時記には、「壱岐地方の漁師言葉」とあり、その本意として「立春後、初めて吹く強い南風」「春をよぶ風」とある。

 だが地元の者としては、その本意にずれがあるように思う。
 
 特にあのキャンディーズなる三人娘が「春一番」を歌ってからは、その感が強まった。私の理解する。
 
 「春一番」は「長年漁師をしている経験者が予見出来ず一網打尽遭難する突風」である。その本意のかすかなずれに、私は密かに悩んでいる。

  春一番なんのそのぞと越えゆかん     園田靖彦


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