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日記買う

 暮れも指呼の間に迫り、そろそろ日記を買う時節となってきました。

■なぜ日記をつけるか
「日記買う」「日記果つ」は冬の季語です。
日記をつけることは、子供のころ夏休みの宿題で、大概の人が一度は経験すみのことと思います。
 さて、その日記を自主的につけ始めるか、3日坊主で終わるか、一度中止したのを再度つけはじめるか、終生つけ続けるか、別れるところだと思います。
 人間はなぜ、日記をつけ始めるのでしょうか? ものの本によると、今までとは何か違った生き方をしたいと、ある種の決断をするときに着手するようですね。平凡なところでは進学したり、留学したり、入社したり、自らが人生の節目を感じ、充実した生活をしたいと思うこころが一つの引き金になっているようです。
 
■自分の1日をデコレイト(decorate)する
 以前、NHKテレビで作詞家の阿久悠氏が自分の日記を披露されていました。自分の1日の記述のほか、時代のキーワドと思える新聞や雑誌の切り抜きを張ったり、世相を批判した川柳を作ったり、その日の終わりに、1日をデコレイトされているように思えました。さすがに作詞家、これさえあれば時代の雰囲気、言葉が、いつでも取り出すことが出来るとおっしゃていたように記憶しています。常に言葉の鮮度を保つために努力されていることが解ります。詳細は以下にまとめられています。
 ※阿久悠著『日記力「日記」を書く生活のすすめ』(講談社新書)
 
■いつ日記をつけるか
 さて、日記をいつつけるかで日記の内容がかなり変わってくるようです。たとえば、その日の夜、翌朝、1週間まとめて、などです。やはり、その日の夜に記録することは、その日の感情のたかぶりの仔細を記録出来ることが長所。短所としては、自分の感情を対象化できず、いわゆる「泣き」や「驕り」「嫉み」に偏ってしまうことでしょう。森鴎外のいうところ「夜の思想」に陥入りやすいと思われます。即ち、極端に自己を美化、卑下しやすいのです。

 翌日の朝、昨日の日記をつけることは、かなり理想的と思われます。よく他人に出す手紙は1夜寝かせよ、と言われます。先の「夜の思想」に陥入らず、翌日、過剰な表現は修正出来るからです。
 『蘆花日記』は、「翌朝つけられたものだ」と紀田順一郎は、指摘しています。日記は、その日のうちに書くものだと思っていた小生は、以前、そのことを知り、驚いた記憶があります。
 ※紀田順一郎著『日記の虚実』(ちくま文庫)
 
■日記は他人に読ませるものか
『蘆花日記』については、以前、中野好夫の力作『蘆花徳冨健次郎』を一読し、知りました。家長である、堂々とした、男性的な蘇峰と、何かというとメソメソする女性的である蘆花の宿命的確執、その狂おしいばかりの懊悩、養女二人への妄想と完全なるセクハラ、愛子夫人との密かな、お互いの日記の見せ合いっこなど、異常とも思える夫婦愛などを知り、驚嘆しました。はずかしなら、当時、ほとんどポルノとして読んだ記憶があります。
 そこで次ぎに、日記は自分のためだけに書くものか、他人に読んでもらうことを意識して書くかということがあると思います。

 蘆花の場合は、プロの作家でもあったので、他人の眼を意識して書いたと思います。永井荷風の『断腸亭日乗』などは、最たるものと言えましょう。
 小生も学生時代に論争した記憶がありますが、結論的に言えば、文字というカタチにする以上、潜在的にどこかで他人に読まれることを期待していると思われます。
 ※『蘆花日記』全7巻(筑摩書房)
 
■作家と日記
 ここまで引っ張ってきましたが、実は白状すると、小生が携わっている雑誌の1月号で「『他人の日記』で知る自分」を特集しています。
 巻頭インタビューは作家の半藤一利氏にお願いしました。半藤氏は、「週刊文春」「文藝春秋」の編集長、役員をされたあと、作家活動に入られたことは,多くのかたがたがご承知の通りです。(昭和史、戦後史にかかわる著作は白眉。小生はひそかに“昭和の語り部”と読んでいる)

 氏は駆けだしのころ、荷風死亡時に最も早く駆けつけた5人のうちの一人で、その記事をいまはなき創刊号に載せたことがある由。『永井荷風の昭和』(文春文庫)は、小生の愛読書でもあります。

 半藤氏は、自らは日記をつけたことはないが、現在、現代史に登場する人々の80人くらいの日記を所有されており、それぞれの日記を複合的に読み合わせることによって、いままでみえなかった事実が照射されてくるそうで、そのおもしろさを語っていただきました。そのほか現役時代、『高見順日記』『小泉信三『海軍主計大尉小泉信吉』などの上梓に携わった話もされました。 
 http://www.tokaiedu.co.jp/bosei/

(12月5日の北海道新聞の1面「卓上四季」で紹介されました)
 
■小生と日記
 小生は高校1年生の4月から日記をつけています。先の例でいえば、これから特別な生活をしたいという気持ちがどこかにあったと思います。つける時刻は、毎夕、就床の儀式として、つけることにしています。わが母も心不全で死亡する前日までつけていました。最後は、一人で生活していましたので、文字通り、就床の儀式としていたと思います。父親もつけていました。

 一家はメモ魔の習癖があると思います。叔父などはいつもなにかメモをしています。TVで野球を観るにしても、スコアブックをつけなければ見れない人です。小生も以前、高校野球を観るときは、スコアブックに記入しながら観ました。京大カード、KJ法など、全部すきで、いずれも試してみました。
 
 わが日記において、面白いのは、20歳前後の、青春のただ中の疾風怒濤の時期は、オミットされていることです。日記の一読者にとってこの時期は一番読みたい箇所だと思いますが、なんと肝腎の箇所が欠けています。書く立場からすれば、大袈裟にいえば、こころのなかを駆けめぐる懊悩は、とても文字などで、書き留めることなど不能といえるでしょう。

 そのほかは、大体記入されています。最近は、年齢にもよると思いますが、次第に記述内容が客観的な内容ばかり、箇条的になっているのが特徴でしょう。

 文字にするとなると、どうしてもドラマチックな内容を欲しがりますが、平凡人の日常は、どうしても平板な日々になりやすいと思います。(あんなにおもしろことばかりやってきた高杉晋作でさえ、辞世の句では「おもしろきこともなき世をおもしろく すみなすものは心なりけり」と言っています)そこで小生は紙面に次のような事項をいれて、デコレイトしています。
 たとえば、以下のことは、小生にとっては“事件”ですから、記入するようにしています。
 その他のファイルに句作、金銭出納、などを作っています。
 【書籍購入】【書籍読破】【映画鑑賞】【受信】【送信】【畑作物】

 15年くらい前から、記入はすべてはコンピュター上にしています。デジタルにしたことで、過去のことがらが検索・確認がしやくすくなりました。

 最近はブログなどという日記風のメデアが登場して、誰も簡単に「書く人」「読む人」になること出来るようになりました。(小誌の特集では大相撲の「普天王」のブログを取り上げました)ブログの功罪はいろいろあるでしょうが、功の方では、むずかしいことを解りやすく、平易に表現する風潮がみえたことだと思います。(むずかしい表現だと誰も読んでくれませんからね)

○いとおしき一語くわえて日記果つ
○亡き母の日記をくればをちこちにわが文なきを憂ふ跡見ゆ


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