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平戸藩士

詩人、三富朽葉、その3、です

 先回、小生から5代前の高祖父・與次平(よじへい)は、5女1男に恵まれていますが、その半分の3人を神官職の家と婚姻させています。いまから考えると、不自然に思えます。なぜ自分の子どもの半分を、神官職の家と婚姻させたのでしょう。次回はその謎解きをしましょう。
 ――と書きましたが、2、3回“脱線”させてください。

 以下に、掲げる資料は、郷土紙『ふれ太鼓壱岐』1991年11月28日(木)号に載った「壱岐島内平戸藩諸士禄高」(15石まで:壱岐郷土館調べ)です。

 当時、壱岐は平戸・松浦藩の支配下でしたから、わかりやすく言えば、平戸藩壱岐出張所の幹部お歴々ということでしょうか。

 よくみると、わが家の墓に刻んである、見覚えのある名前――「長嶺村 S住右衛門」が載っていたので、その時何気なく切り取っていました。※3がそれです。(実は、與次平の父が住右衛門なのです)

 郷土紙には、掲載記事の時代はいつのことか表記されていませんでしたが、先年、帰郷した時に住右衛門の墓碑銘を確認してきました。彼は1853年――ペリーが浦賀にきた年に死亡しています。したがって、この一覧は、明治維新前15年前のものということになります。

 実は、その後、以下が判明しました。
 ※1――曾祖父の実家(養子であった)
 ※2――祖母の実家

 実は、他人の家の先祖話――ルーツ話ほど、興ざめなものはないので、遠慮しようかと思っていたのですが、「こんな時代もあったのだ」ということで、大きく言えば「壱岐の歴史」の1断面のベンキョウになるかと思い、思い切ってアップしてみました。

表記順は、以下の通り。
石 高、居住地、 氏名、備考

●八拾石  
柳田村  横田七郎左エ門  百石迄給タル旧家     ※1

●六拾石
柳田村  許斐 民之丞    一旦断然、旧家
黒崎村  永田稲右衛門   松英公御取立
     山川 橘馬     松英公御取立 金拾両米ニテ四拾俵五合三人扶持

●五拾石 
可須村  中尾 丹弥   六拾石迄給タル家、天祥公召出、旧家中尾一藤治別家
     須田 隈吉   五合拾人扶持、新組組頭席ノ例アル家、百五拾石迄給タル家一旦断絶
可須村  土肥甚右衛門 五合拾人扶持、一旦断絶、安靖公御取立
     日高牧左衛門  五合拾人扶持、松英公御取立、旧家廣澤子吉別家
石田村   水口膳所右衛門  五合拾人扶持、百五拾石迄給タル家、一旦断絶、旧家本名中尾

●四拾石
       立石住郎右エ衛門  切米八石、合力米二拾俵、一旦断絶、旧家立石別家

●三拾石
可須村  本土孫四郎   四拾石迄給タル家、一旦断絶、天祥公御取立
池田村  牧山 太門   一旦断絶、旧家
新城村  西  林弥   銀拾枚、合力米拾俵六合五勺一人扶持、雄香公召出、西情右エ門別家
黒崎村  廣澤子吉     切米拾石、百三拾石迄給タル家、一旦断絶、旧家本名日高

●二拾五石
諸吉村  長嶋加賀右衛門  三拾石迄給タル家、一旦断絶、旧家
    日高 嘉市  五合五人扶持、百石迄給タル家、一旦断絶、宗陽公召出、旧家廣澤子吉別家
可須村  林  弥平  五合五人扶持、四拾石三人扶持迄給タル家、天祥公召出、林祐甫別家
可須村  中原孫之丞  合力米二拾俵六合五勺一人扶持、五拾石迄給タル家、一旦断絶、旧家 

●二拾一石
諸吉村  宇都宮圓左衛門  雄香公御取立         ※2

●二拾石
本宮村  矢嶋斧右衛門   三拾石迄給タル家、天祥公御取立、本名加勢田
箱崎村  有浦 民右衛門  三拾石迄給タル家、天祥公御取立
長嶺村  S  住右衛門  二拾石迄給タル家、天祥公御取立、旧家S和平別家。    ※3
      山田 國五郎   合力米二拾俵、百石迄給タル家、一旦断絶、天祥公召抱
湯岳村  樋口 千代吉   合力米二拾俵、勘定奉行ノ例アル家、二百石迄給タル家、一旦断絶、銀拾枚三人扶持
志原村   久間 丹五郎   切米六石、安靖公御取立
      殿川 柳之助   切米六石、安靖公御取立
武生水村 竹富 太十    切米六石、乾斎公御取立 

●十五石
本宮村   和知 藤大夫   二拾五石迄給タル家、天祥公御取立
本宮村   岩永 亀之助   五合三人扶持、勘定奉行ノ例アル家、百五拾石迄給タル家、一旦断絶、旧家
本宮村  中原與茂太    切米五石、六拾石迄給タル家、一旦断絶、安靖公御取立
                   
「一旦断絶、○○公御取立」など、なかなか生々しい記載もありますね。

 小生の6代前の「住右衛門」には「二拾石迄給タル家、天祥公御取立、旧家S和平別家。※3」
と表記されています。即ち、わが家は「和平の別家」の血筋ということになります。それでは「本家和平」なるものは、どんな人物なのかということになります。また「住右衛門」はどんな役職をしていたのでしょうか?
                  
 なお、自分の子どもの半分を神官職の家と婚姻させることの遠因に、幕末平戸藩の位置があるように思われます。幕末、薩長土肥といわれるように平戸藩は肥前に属し、倒幕派の末端に属していました。


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arion60

平戸藩士を読んでいて「横田七郎左衛門」に見覚えがあり、よく見ると私の祖先「有浦民右衛門」があり驚きました。
私の家にある古文書と言えるかどうかわかりませんが「東流兵法切紙秘事」があり、有浦民右衛門へ東軍翁十二代孫横田七郎左衛門から与えられたものです。私の父親が壱岐出身なので一度、壱岐郷土館を尋ねて見たいと思います。
by arion60 (2005-07-10 22:45) 

toko

世の中、広いようで狭いですね。お父上は箱崎のご出身ですか。なるべく詳しく話を聞き出していただくと幸いです。ところで、お宅は、神道ですか。
by toko (2005-07-22 13:13) 

arion60

多分聞いたことがあるので箱崎だと思います。私が小さい頃に亡くなっており、今では壱岐のことを聞く人が身近におりません。
父が東京に来た当時は結構大きな屋敷だったそうです。今では墓地も東京に移してしまったので・・・神道のこともわかりません。
何もわからずすみません。
by arion60 (2005-08-13 23:37) 

toko

 コメントありがとうございました。
 われらの先祖は同じ20石、多分、そのころの役所では、ひんぱんに顔を合わせたことでしょう。
 わが家は代々、馬廻り役という役職をあずかっていたようです。いまの役職でいえば、警察署長でしょうか。明治のご一新のとき、わが当主は東京にかり出され、当時の反政府鎮圧に当たったようですが、明治4年、殉死しています。(壱岐で最高役職であった横田家から養子入り)
 その後わが祖父も県から召還され、長崎本土で警察官になり、最後は、長崎水上署長を勤め、長崎の野母半島の先端にある樺島の村長をし、昭和3年に帰郷し、その後病死しています。(長崎警察時代はおもしろい話しがあるようです)
 わが父も戦前、警官になり、中国・大連に勤務しておりました。敗戦とともに捕虜としてロシアに抑留されていましたが、昭和23年に帰郷しました。戦後は警察には復職しませんでした。勿論、小生も警察への道は歩みませんでした。
 神道については、まだいくつおもしろい話しがありますが、後日……。
by toko (2005-08-14 18:15) 

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