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連載第7回

島に生きる 季語と暮らす 

夏休み
                                            
 郷里には壱岐八浦とよばれる町がある。浦とは海が湾曲して陸地に幾重にも鋭く切り込んだ入り江・良港のことであるが、郷里では漁師、商業の中心の町をこう呼んでいる。いわば壱岐の繁華街であ
り、私の子ども時代には、毎日のように、あるいは定期的に市が立っていた。

 壱岐には八浦のほかにも良い入り江がたくさんある。私の実家のある島の西南部、半城湾の奥の奥、御津浜もそのひとつだ。この浜は海に面した三方が急勾配にせりあがっているので、浜から実家を
眺めると急勾配の崖の上に聳え立つように見える。逆に実家から海を眺めると、足元から急勾配に落ちた谷底に海面が見える。

夏、耳を澄ますと、子どもたちが海辺で泳いでいる歓声や水の音がかすかに聞こえ、その姿は粟粒ほどに小さく見える。

 私は壱岐で高校までを過ごすが、高校に入ったのち、いわゆる思春期になってから、この世には寝付かれない夜、眠れない夜があることを知る。

その夜は風が強かった。真っ暗の床のなかで眠れないでいると、突然のようにドドドドピッシャーンという潮騒の音が谷底から聞えてきた。これは私にとって驚くべき大発見であり、それからは毎晩のように潮騒に聞き耳をたてた。そして、潮騒はその夜の風に応じるように届いた。

 ある夜は、まったく無風であった。今夜はきっと潮騒は聞こえないだろうと床についたところ、和紙の上の埃を刷毛でやさしく祓っているような音が聞こえた。

なぜ無風なのに潮騒が聞こえたるのか。御津浜は地形的に天に向かって放射状に広がったスピーカーのような形態をしている。谷底の小さな潮騒がスピーカーの音源となり、増幅されてわが耳に届いたのであろう。

 長じて上京してより、これまでに百回以上帰郷している。帰郷したときの私の密かな楽しみは、墓参りや親戚回りをして一日を終え、実家の床につき、今夜はどんな潮騒が聞こえてくるだろうかと耳を
澄ますときである。初めて聞いたあの日のように間違いなく聞こえてくる潮騒の音を確かめ味わい、私は眠りに落ちる。

 実は、この御津浜の潮騒の音については。亡き父母や島内に嫁した今も我が家を守ってくれている妹にさえ話したことがない。今度打ち明けてみようと思うが、みんなの周知の事実なのか、私一人が気づいていることなのか、そのとき判るだろう。

最近、私は自分の郷愁の源がはっきりしてきた。それは、この世で一番妙なる郷里壱岐の潮騒の音と、それを聞きながらつく甘露の眠りにある。

   ふるさとの山河は青し洗鯉   園田靖彦


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連載第6回

島に生きる 季語と暮らす
   
田植
                     

 六月に入ると、いよいよ一年で最も忙しい田植えの時期を迎える。この時期をみんな「猫の手も借りたいほど忙しい」と言っていた。以前書いたように小学校、中学校は全校農繁休暇に入る。子どもも田植えを手伝うためである。

 田植え当日は、親戚全員、土地の言葉で「家ねえやっさ」一族郎党が集まる。そして、例えば本日わが家の田植えが済むと、明日は母の実家の田植えにそれぞれの親戚全員が集まる。更に翌日は、我が家から嫁いだ叔母の家に田植えに行く。

 こうして農繁休暇の三、四日の間に親戚全部の田植えが済む。意外に思うだろうが、壱岐は長崎県内で二番目に大きな作付け面積の田原をもつ。また島全体が台地ゆえに広大な田が続くが、農繁休暇の短い間に島内の田植えはほぼ完了し、一面が植田に変貌する。

 あれから五十年、なぜあの当時猫の手も借りたいほど忙しかったのかと今にして思う。そして弥生時代から蓄積した百姓の知恵に思いあたる。

 私の子ども時代まで動力は牛のみで、あとは人力しかなかった。そこで先祖たちは、田植え期間を意図的に短く設定する策にでた。いわばテンションを極度に高めて一族郎党結束し、一気に田植えを完遂するためである。この手を使えば秋の稲刈りも短期間に一挙に出来る。猫の手も借りたいほどの忙しさは、先祖からの叡智だったのだ。
 
 田植えの前日、女たちは加勢に来る一族のために、徹夜同然で馳走作りに励む。いわゆる早苗饗のためである。そのとき必ず作るのが田植え団子だ。小麦粉を膨らした団子には小豆の餡がたっぷり入
っていて、今の言葉で言えばスイーツであろうか。

 みんな朝早くから働いているので、午前十時には馳走を食す。昼には、植え終わった植田のそよぎを眺めながら、田圃の畦や広場でいただく。もちろん馳走はまず最初に田の神様に捧げ、人間どもはその相伴にあずかるのだ。
 
 私の本格的な田植えデビューは小学校高学年だった。赤い印が等間隔についている紐の前に植え手が一列に並ぶ。紐が新たに張られると大人たちはいっせいに機関銃を発射する早さで一時に十カ所以
上植えるのだが、私は精々三カ所くらいであった。

 早く植えるのにはこつがある。左手に持った苗束の親指を細かく動かし四、五本を繰り上げる。その苗を右手で運び赤印に植える。植え終わると紐は一段手前に張られ、植え手は一段下がる。田の深
さは膝まで、ときには大人の腰が埋まる深田もあった。

 雨が降っても挙行され、蛭に食われながら懸命の田植えだった。余り苗は持ち帰り神棚に捧げた。

   力ある種となれよと浸しけり   園田靖彦




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連載第5回

島に生きる 季語と暮らす 

新茶  

                     
 五月の黄金週間も真近かになると、私はいつも「さあ、お茶を作るぞ」と意気込む。実際には、もう五十年以上もお茶作りをしていないのに何故であろうか。

 私の子ども時代の昭和二十年代後半、壱岐の実家には母屋と隠居棟の二棟があり、その縁先にはお茶の木がおよそ五十メートルに渡って植えられていた。

 連休前にはなぜかよく雨が降ったが、その雨をついて祖母、父母、妹、私の一家五人で新芽を摘む。これを大黒様が担ぐような大きな布袋三~四袋に詰め、それと薪、笊、壺などの一式をリヤカーに乗せ近所の寺に運ぶ。新茶を作る日は、大概五月三日だった。

 寺には鉄の大釜が三十度くらいに傾けて設えてある。竈に薪を盛大にくべながら大釜に新芽を入れ、最初は揉みながら乾燥させる。釜が三十度に傾いているので、総じて両手で掻き上げるのがこつである。これを幼い妹をのぞいた四人交代でやるのだが、四巡目くらいになると茶葉は棒状に巻きつき針のように細くなる。五巡目になると、やっと白い粉を噴き、その加減で終了となる。新茶作りはたっぷり半日を要した。

 新茶は、近所の御世話になっている家や親戚などに配られた。当時、お茶を作っていたのはわが家のほかには殆どなかったので、たいへん重宝がられた。新茶を待ち望んでいた叔母などは、受け取ると急須に入れるのではなく、すぐさま自分の口に放り込んで新茶の葉をぼりぼりと食べていた。

 新茶作りには後日談がある。新茶作りが終わると、いよいよ忙しい田植えの時期を迎える。私も重要な働き手として田植えに加わるが、ここで摩訶不思議なことが起こるのだ。田水に浸した十本の指の爪が、なんと鮮やかな紫に変色するのである。

 結論を先に言うと、先に茶を揉んだときに付着したお茶の成分(タンニン?)と田の水とが化学反応を起こして紫の色を生み出すである。新茶作りはもう一か月も前のことである。それなのに、その後三か月は、風呂に入ろうが石鹸で洗おうが頑固にとれない。

 ちょうど異性に目覚めるころの男の子の爪が紫に染まり三か月以上も消えない。もちろん恥かしいがどうしようもない。いまの都会の子ならばいじめの対象になるだろうが、当時はそんな雰囲気は微塵もなかった。当時の子どもはそれぞれの家で立派な働き手であったので、今の言葉で言えば、互いにリスペクトしていたのだと思う。今年も私の十指の爪は真っ白のままだ。

  高う低う傾ぐる急須新茶汲む     園田靖彦

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連載第4回

島に生きる 季語と暮らす
  
凧(はた)    
                                     
 いま俳人・松尾芭蕉の高弟、河合曾良の終焉の地、壱岐の島を訪ねるのであれば、福岡県博多港から水中翼船に乗ると1時間10分で着く。この島は幕末まで松浦藩(平戸藩)が支配していた。島には、いわば平戸藩壱岐出張所があり、それぞれの行政職があった。わが家は代々馬廻り役、警察庁長官の役を勤めてきた。

 明治の御一新となり、私の曾祖父は長崎市に呼び出され、巡査となった。ところが明治3年、いまでは理由も些細な場所も不明であるが、東京で殉職する。その後、祖父も長崎にのぼり同じ警察の道に進む。

b祖父は順調に昇進し、定年間際の大正末期には長崎水上署長にまで達する。当時、長崎は横須賀、舞鶴と並び三大軍港であった。

 父ら子ども5人は長崎市生れであるが、祖父が定年で郷里・壱岐に戻ったとき、誕生順は4番目、長男の父は尋常小学校六年生であった。

 長崎は凧で有名だ。父が子供時代を過ごした長崎で、凧の洗礼を間違いなく受けたのだと知ったのは、私が初めて父から凧を作ってもらい、その揚げ方を教わった小学生のときである。

 父の手繰りにかかると、右に走ったと思った凧が忽然と左に向きを変える。また天にあった凧が、唐突に地へ向けて落下すると思えば、地上すれすれのところで再び天に駈け上がる。まさに自由自在だ。

 私はたちまちのうちに凧の作り方と手繰り方をマスターし、そのへんの少年の中では一番の凧名人となった。

 壱岐には大人の揚げる「鬼凧」がある。1本の青竹を芯棒とした通常畳3~4枚のサイズで、なかには10畳のものもある。背にはうなりを背負い、風を受けるとブオンブオンと唸る。

 日本の島々には、桃太郎伝説のように、鬼ヶ島・鬼退治伝説がある。壱岐島にも昔鬼が棲んでおり、その鬼退治に百合若大将が向かったという。凧には彼の七重の兜に、赤鬼が噛みついた勇壮な絵図が極彩色で描かれている。

 鬼凧は大人4~5人かかりで揚げる。子どもが揚げる小さな無数の凧のなかで、唸りつづける大きな鬼凧の存在感は絶大だ。この凧は、季節が過ぎると、節分の「鬼は外」よろしく、各家の大広間の
天井板に釣り下げられ、魔除けとなる。

 長崎人は凧揚げが好きだ。凧を愛すビードロ会、関東長崎県人会などでは、毎年黄金週間の一日、多摩川の河川敷で凧揚げ大会を催す。ざっと二千六百人が集まる。ある年は無風であった。どのブースからも凧は揚がらなかったが、わがブースからのみ一枚の凧があがった。その揚げ手は私であった。

 喧嘩凧龍追うて虎駆け上げる     園田靖彦




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連載第3回


島に生きる 季語と暮らす
 
猫  
                                               
 旅先で、あるいはたまたま訪れた街の広場で、私は猫に身を擦り寄られたことが何度かある。もちろん、この予期せぬ出来事自体が驚きなのであるが、実はもう一つ心の底で驚いていることがある。

 それはこの猫たちが、私が猫好きであることを察知して擦り寄ってきたと思われることだ。私は郷里、壱岐島を離れて五十年、猫好きを断って生きてきた。その間一度も猫好きを公言したことはないし、そのそぶりすら見せたことはない。

 私の小学生時代である昭和二十年代後半、農家でさえ貧しくて三食十分に食えなかった。そんな中で猫は勝手に一度に三~四匹の子供を産む。大概の家は、とてもそんなに多くは飼えないから、子猫を目隠しの意味もあって布袋に入れて遠くに捨てに行く。ところが二~三日もすると、ものの見事に帰って来る。

 そこで飼い主は近くに猫好きの家はないかと考える。その格好な家がわが家だった。祖母、母、壱岐で生まれた妹、みんな猫が好きだ。玄関には丁度猫一匹が通ることが出来る穴が空いている。わが家には五、六匹ぐらいの猫いたが、三度の飯時になると、このほかに寅さんみたいな風来坊、まるで凶状持ちの陰気な猫、わが飼い鶏をいつもねらってっている泥棒猫などなど、ざっと二十匹くらいが現れる。

 その猫連にわが家の女性たちは、分け隔てなく惜しげもなく大きな皿にたっぷりの食事を与える。それぞれの猫は互いを威嚇しつつ食べる。そして食べ終わるとビジターたちはいっせいに姿を消す。猫にとってはわが家は“解放区”であったろう。

 私がめったにしない勉強をしていると、当然というように私の膝の上に一匹が乗ってくる。またお茶目な奴は私の背中から駈け上がり、両肩の上を行ったり来たりする。あまつさえ頭の上に登ろうとする。また私が学校から帰ってくると玄関前に五~六匹が整列して出迎えてくれる。なかには急にペコと横たわり腹を撫でてくれと催促するのもいる。

 猫は青年期なると一度は家出をする。恋の相手と駆け落ちをするのだろうか。大半は恋に覚めて帰ってくるが、なかには永遠に帰ってこない猫もいる。そんな猫に思わぬのところででくわすことがある。「タマじゃないか」と私が話しかけると、しまったという顔をする。私の愛撫は邪険に躱す。「早く帰って来いよ」と言うと小言は御免というように姿を消す。

 私はついに猫好きを告白してしまった。きっと又どこかの街角で見知らぬ猫に、今度は堂々と擦り寄られることだろう。

   喉の奥声にならざる仔猫かな    園田靖彦

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連載第2回

島に生きる 季語と暮らす

寒鰤   
                     
                      
 結婚をして四十二年目を迎える。この間、私たちは暮れには必ず郷里、玄界灘の壱岐で獲れた寒鰤を一本贈ってもらってきた。十三年前に母を亡くしたが、その後は今年九十五歳になる叔父にずっと贈ってもらっている。

 壱岐人ならば、正月に鰤を食べないなんてありえない。この聖なる壱岐の鰤を年頭から食べて邪気を払い、一年を無事乗り切って欲しい。鰤を食べずに正月を過ごさせるなど、ご先祖様に申し訳がないという訳だ。

 私の小学生時代である昭和二十年後半、壱岐では農家でも小舟を所有していた。それには二つの重要な意味があった。

 一つは春になると、海底に藻が繁茂する。その藻を刈り取って、舟がもう少しで沈むくらいまで積んで帰港する。強烈な潮の香りにまみれて、ぐっしょり重い藻を、一家で陸揚げして、港の広場で干す。その干し上がった藻を畑に持って行き、土のなかに鋤き込む。まだ化学肥料のなかった時代の貴重な有機肥料だった。

 二つ目は、鰤釣りのためだ。壱岐の冠婚葬祭では、鰤がなくては始まらない。男たちは前日、舟で鰤釣りに行く。そして間違いなく一、二匹は釣りあげて帰ってくると、たちまちのうちに料理する。この鰤を釣り上げて料理するまでが男たちの役割だ。いまでも我が家では、壱岐の男として鰤の料理は私がする。

 料理といっても、ほとんどが刺身である。壱岐では徹頭徹尾鰤は刺身で食べる。妻は金沢生まれ、金沢育ちで、やはり鰤の本場の出身であるが、新婚のころ私が鰤を捌いているときに、照焼用に切って頂戴と言われた。そんな小洒落た食べ方がこの世にあるのかと思ったくらい、私には鰤即ち刺身というイメージがしみこんでいる。

 壱岐ではなにかというと鰤が出る。客に鰤の刺身をたらふく食べて貰うのが歓待の手始めだ。私が帰郷すると、もちろん鰤の刺身の大盛りである。親戚連は私がうまそうに食べるさまをじっと見ている。そして最初にどんな言葉が飛び出すかを固唾を呑んで待ちうけている。「やはり壱岐の鰤は一番うまかばい!」と私が言うと、みんな一気に相好を崩す。

 日本は、正月に鰤を食する地方と鮭を食べる地方に大別される。いわゆる鰤文化圏と鮭文化圏である。私も妻も幸い鰤文化圏のなかで育ってきた。今年も私たちは、壱岐の鰤を食べて息災に正月を迎えることが出来た。

寒鰤の躍り疲れを待つ包丁     園田靖彦


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連載第1回

新連載 島に生きる 季語と暮らす

春一番      
              
                       
 私が両親のふるさと、玄界灘に浮かぶ島、壱岐(現長崎県壱岐市)の地を初めて踏んだのは、一九四七(昭和二二)年二月十五日、,勝本港、小雪の舞う日であった。

 当時、私は四歳、背中のリックサックには兄の遺骨が入っていた。母は二歳の病弱な弟を背負い、手には必要最小の荷物を持っていた。父は捕虜にとられて音信不通。文字通り命からがら中国東北部・大連からの母子三人の帰郷、引き揚げであった。
父は幸いその一年後に無事帰国するが、その一週間前に弟は病死していた。

 私は高校までこの島で過ごした。以後、こんにちまで関東暮らしとなったが、後年、俳句を始めてみると、やや大袈裟だが、壱岐では季語の只中に暮らし、季語を身をもって体験しながら育っていたのだと気づいた。私にとって俳句を詠むということは、とりもなおさず壱岐での少年時代を呼び起こすことであったのだ。

 当時の子供たちは、一家にとって重要な働き手であった。学校から帰ると、手伝いや仕事が山ほど待っていた。例えば炊事場にある大きな水瓶、半斗甕(はんどかめ)に水を満たさなければならない。

 三十米離れた釣瓶井戸から水を汲み桶に入れ、天秤で運ぶ。

 風呂を沸かすとなると更に三架以上の水が要る。また裏山に行って枯木を拾ってくる。ランプの火屋(ほや)を磨く。 石油が切れていれば徒歩で片道二キロの店まで買いに行く。
 
 猫の手も借りたいほど忙しい、田植え、稲刈り時期になると、小学校、中学校は全校休みの「農繁休暇」となった。勉強する子よりも手伝い、仕事をする子の方がよい子だった。

 さて、俳句を始めて、壱岐には誇るべきことが二つあることを知った。
 一つは、河合曾良(1649~1710)の終焉の地であること。幕府の巡見使随員として佐賀・呼子から壱岐へ来島し、更に対馬へ渡る途中、壱岐の北部、勝本で客死する。享年六二。

 記念句碑には、その年の歳旦吟「春にわれ乞食やめても筑紫かな 曾良」と記されている。やはり師・芭蕉の晩年の西国行脚の夢が後押しをしたようだ。

 二つ目は、季語「春一番」の発祥の地であることだ。歳時記には、「壱岐地方の漁師言葉」とあり、その本意として「立春後、初めて吹く強い南風」「春をよぶ風」とある。

 だが地元の者としては、その本意にずれがあるように思う。
 
 特にあのキャンディーズなる三人娘が「春一番」を歌ってからは、その感が強まった。私の理解する。
 
 「春一番」は「長年漁師をしている経験者が予見出来ず一網打尽遭難する突風」である。その本意のかすかなずれに、私は密かに悩んでいる。

  春一番なんのそのぞと越えゆかん     園田靖彦


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8年ぶりのご無沙汰

 8年ぶりのご無沙汰です。
 この間、いろいろありましたが、1つの集大成として、小冊子1冊を、上梓(2021年4月20日刊)させていただきました。

 すこし具体的に述べると、入会している月刊俳句結社誌に4年間連載(2017年1月号~2020年12月号)させていただいた拙文を、冊子にまとめさせていただきました。タイトルは『島に生きる 季語と暮らす』です。

 以後、4年間×12か月=48回分を、随時、掲載させていただきます。
 どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

 舞台は、玄界灘に浮かぶ壱岐の島の、戦後、敗戦から昭和36年頃まで、です。

 念のため、出版社は、以下の通り。
 『島に生きる 季語と暮らす』七月堂 1650円税込み


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鎮花祭

 昨日、2015年4月7日、わが結社の埼玉支部発足6周年記念、桜
吟行句会を開きました。吟行地は、大宮公園、大宮盆栽美術館など。

 実は6年前に結社の同好者だけで、この地で吟行句会を4~5度
開いたことがあります。この集まりを支部結社として昇格させて、
毎月1回の定例句会を始めたのが、6年前という訳です。

 当日は、大宮駅に、13人が参加しました。勤めを休んで参加した
人もいました。あいにくの小雨でしたが、決行をしました。俳句で
は、雨ならば雨の、快晴時にはない、特別な句が出来ます。俳句に
天候のうんぬんはなしといいます。

 駅から徒歩で20分、氷川神社へ。鎮花祭に立ち会いました。実は
メンバーの中の1人がこの氷川神社の総代を務めています。この祭
りは五穀豊穣、無病息災を祈願する祭りです。

 神社の真ん中にある舞殿では、氏子崇敬者の童女5~6人が琴と
詠唱にあわせて踊りました。花しづめ舞、乙女舞(豊栄舞)、浦安
の舞などです。3日間の最終日の、この日は神職も装飾の正装であ
る衣冠を着、冠に桜花の小枝を付し優雅に参列しました。
 この神社は、武蔵一宮だけあって、古式豊かに1年の行事が滞り
なく行われているようでした。

 五穀豊穣、無病息災を祈願する祭りは、四季折々、趣向を変えて
全国的に行われている行事です。この季節季節に行われる行事を、
自分の暮らしの中に織り込んだ生活をすることは、豊かな意味を持
つように思われます。句作もその一端だと思いますが……。

 大宮公園はほとんど桜が散っていました。勿論、花見客はうそ
のようにいません。以前、満開の公園を通ったことがありますが、
その時は、立錐の余地もないくら花見客であふれていました、

 更に新しくできた大宮盆栽美術館を巡りました。
 近年、外国でも盆栽は注目されているようですね。外国人のツア
ーも組まれ、「爆買」の対象になっているとか。この日も外国のか
たが多く訪れていました。残念ながら時間がなく、急ぎ足の閲覧で
した。

 句会場は、氷川神社の近くの高鼻コミュニティセンターでし
た。 句会では、なぜか、小生だけが目立つ句会となりました。
いつもの作意ギラギラから、少し肩の力が抜けたのだと思います。
 
・第1句座(吟行句5句)

 花の雨武蔵一国鎮めんと       5点句
 神の子のおんひらひらと鎮花祭   4点句
 花冷えの天押し上げて五葉松    4点句

・第2句座(恋の5句。苦手)

 花の友花の夫とぞなりゐたる    3点句
 付け文の一つや二つ花おぼろ

・第3句座 (総合句に3句――打ち上げ的に)

 花冷えやあつきこころを句に込めて 4点句
   花咲爺さん老ふる
 爺さんのこころの底の花あかり
 
 結局、またまた自画礼賛になってしまいました。
 
 
 

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力ある言葉

 昨日(2015年2月28日)は、東京・目黒にある、早春の自然教育
園を吟行しました。参加者16名でした。

 園内は、文字通り、早春で、目ぼしい句材としては、蕗の薹、野
蒜(のびる)、藪椿、小鷺などがありました。

 この句会のきまりは、各人10出句、7句選、そのうち1句を特選と
して選ぶ、というものでした。

 自画礼賛になりますが、なんと、この日、私の以下の句が、5人
の方から「特選」に選ばれました。こんなことは珍しいことです。 

・天地のとこよの馳走野蒜掘る
・舞ひ降りて四辺の主や春の鷺
・をしみなく蜜を散らせて椿揺る
・ぬかるみに足とられつつ春の鷺

 いくつかの賛辞のほかに、当然のように批判もありました。
 以下、いかにも大袈裟、あざとい措辞ではないか、という指摘で
す。

 第1句の「上五」―→「天地」
 第2句 「中七」―→「四辺の主」

 目下の私の句への批判・指摘は、おおよそ以下の通りです。
・ 大袈裟
・ あざとい
・ 強い言葉が並びすぎ

 俳句は韻文です。しかも5・7・5の17文字に言葉を圧縮させて、
一挙に発散させます。また、17文字という世界でも最も小さな詩形
ですから、潜在的に「大きく」詠みたいという気持ちが作者のここ
ろの底にあります。

 そこで、ついつい力のある言葉を選ぶことになります。季語は、
もともと強い力を持つ言葉です。「中七」は、一般的に作者が最も
こころこめる手触り感のある言葉を駆使するところです。当然のよ
うに、力のある言葉を並べがちになります。

 たとえば季語を「上五」に置くと仮定すると、以下のようになり
ます。

 「上五」強+「中七」強

 これに「下五」に、力のある強い言葉をつけると、

 強+強+強

 となり、力のある言葉の羅列になります。強と弱が組み込まれて、
音楽(俳句は韻文、いわば音楽)になります。私の句は、強+強+強
ばかりの単調な叫び声、これでは読者の心を捉えないという訳です。

 これを如何にのり超えるかが、私の課題です。 

 なお、私が選んだ7句のなかの、特選の1句は、以下でした。

・うぐひすやおにぎり口に入れしとき
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