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目的不明の道路工事

 先に郷里の土地問題に巻き込まれたことを報告しました。
 
【その後の事実関係】
①2004年暮れ、小生が壱岐市担当者と東京でで面談する。市の回答は「合意しているものと思っていた」
②その後、小生が市に手紙を出し、今まで市が製作したという全図面5図を平成17年1月18日に入手。
③それに対して、小生は先に掲げた、メール「道路建設のための目的説明は不要か?」を市に送信する。
④いまのところ市からは返事なし。

 小生としては、返事がなければ、当方からは当面放っておこうと思っています。小生は、以下のように考えています。

 実は、平成17年1月18日に今回の道路計画図5枚を市から貰い、すべてのことが氷解しました。(冗漫な文章になっているので、最後尾の「結論」を先にお読み願います)

■市は、最初から、地権者に「説明」し、地権者の「同意」を得る意思はまったくなかった。

 いま、小生が感じている実感的な言葉で言えば、「詐欺」と「恐喝」(最後にお役所の威光で捺印させる)で、地権者から土地を召し上げる魂胆だったと言えるだろう。市の使命が、住民の意見を聞き出し、それを政策として解決するものであるならば、また住民の生命と財産を護ることが大目的であるならば、まったく逆の働きをしていると言わざるをえないだろう。警察が防犯にこころがけ、泥棒を捕らえることが一つの使命であるならば、警察が自ら泥棒をするようなもので、謝って済むものではないと愚考する。
 
 具体的に説明する。平成17年1月18日、今まで市が製作したという全図面5図を入手した。これに母が死亡前日までに克明に書いていた日記と死亡日を織り込んでみた。以下は、母の日記から関係する事実、母の死亡日、市の要請で小生が東京で会った日を年代順に表記したものである。(※印)
 
※平成9年5月の母の日記に「工事委員長Uさん印鑑をとりにくる」
○第一図(平成12年10月)
○第二図(平成13年6月)
※平成14年3月18日、母死す。地権者名、直ちに小生に変更。
○第三図(平成16年4月)
○第四図(平成16年10月)
※平成16年11月29日、突然、案内文(数字的表記、印鑑なし)と工事平面図をU工事委員長から受けとる。わが家として初耳。(地権者会議の4日前と後日判明)。
※平成16年12月20日(月)午後2時~4時、東京都・アーバンホテル大田市場内の会議室でU工事委員長、Y元日ノ組公民館長、壱岐市建設部土木課課、同建設部土木課管理用地係両氏と市の要請で面談。
○第五図(平成17年1月)――新提案。ほんの1部分変更。
 
 以上で見る通り、母が死亡するまでに既に第一図~二図が出来ている。第一図は、母の死亡約三年前に出来ている。市が地権者である母に、相談、説明、合意しようという意思があれば、十分に出来た時間である。
 
 小生はいままで、第一図は母の死亡の平成14年3月18日以降に出来上がったものと理解していた。なぜならば、先にも説明したように母の日記、遺書に、今回の道路の件は、一行も記載されていないし、母の晩年に意識的に連絡をとった小生、地元に住み1週間に1度は実家に帰っていた実妹も一度もこの道路問題については、いっさい聞いたことがないからである。
 
 
 上記の事実は何を物語っているのだろう。以下の通り、断言してもよいと思われる。
 
・市は地権者に一切説明する意思はなかった。
・地権者会議の直前になって全貌を明らかに、市の「威光」によって印鑑を押させる作戦であった。

 もちろん、この行為は、先に説明したように、市の本来の職務を甚だしく逸脱している、犯罪にも等しい行為と言ってよいと思われる。 
  

■市は補助金を得ることだけが、最大目的であり、地権者、地元の将来的展望など、どうでもよかった。

 小生は市から入手した全5図を並べてみた。一見して驚いたことは、第一図から第五図まで、共通していることは地権者の立場を、寸毫も忖度(相手の気持ちをおしはかること)していないことである。第一図から堂々とわが家の前の畑を横切って図面が書かれていることだ。小生の理解している「あら図」といわれるものは、おおよその工事の輪郭を決定するために、丁度画家がデッザンをして、次第次第に構図を決めていくように、多様な意匠のバリエーションがあってしかるべきだと思っていた。
 しかし、入手した全5図に共通していることは、最初は多様な意匠を描き、次第に特定してくという過程・痕跡が皆無であることだ。これは何を意味しているであろうか。

 最初から地権者の立場になって考える意思がなかったし、計画図に基づく説明・相談・合意を地権者からとりつける意図はまったくなかった。(事実、地権者会議4日前まで地権者に公開さえしていない)たまたま、そこに土地を持っている者がいたので、補助金を得るための条件にあった「7mの道幅、まがりの少ない道」をあてはめて、図面を書いただけだった。

■なぜ「7mの道幅、まがりの少ない道」でなければならないのか。道を作る目的はなにか? 将来、地元民に利する展望的なプランが皆無と言える

 昨年末、東京で市とあったときの感触で「7mの道幅、まがりの少ない道」に固執していると感じた。なぜ、地権者の意思などまったく忖度しないで固執するのか。答えは、簡単明快、補助金を得る条件を満たすためだと思わる。
 
 では、「7mの道幅、まがりの少ない道」を何のために作るのあろうか。地元民、地権者のためにどんなメリットがあるのか。
 
 「けものみち」ならいざ知らず、人間の作る道には、最初に「目的」があり、その目的を達成するために「道」を作るのが、人間の有史以来の歴史である。少なくとも、道を作ることはあくまでも「手段」であり、「目的」ではないのである。目的とはたとえば、以下の通りだ。これらのものを作れば、地元・有安触民にいくばくかの雇用が生じるであろうし、金も落ちるであろう。

・大きな病院を作った
・空港を作った
・大きな船が接岸できる港を作った
・工場を誘致した
・大規模の団地を造った
・1日に10台、観光バスが来る観光スポットを開発した

「すべての道はローマに通じる」という諺がある。ローマの歴史を少しでも学んだ者には、ローマには確固たる「戦争に勝利するために」という「目的」が最初にあり、その目的を実現するために「手段」として道路作りがあったことが理解出来ると思う。即ち、戦闘地に敵より一刻も早く、味方の戦士と資材を運ぶために、という大「目的」が最初にあった。ローマ人は、敵より早く、圧倒的な戦士と資材をつぎ込み、陣地を大規模に築く、インフラ作りが得意であった。人材、物量、すべてに圧倒して、絶対「勝つ」という場面を作ってしか、戦闘を開始しなかった。(軍事、土木が彼らはきわめて得意であった)
 再度、言う。はじめに「目的」ありき。道路つくりはあくまでも「手段」。道路つくりにおいて「手段」が「目的化」するなど、有史以来ないことを世界の歴史は証明している。どのような道をどこに作ると産業、都市はどう発達するか、しないか――を勉強する学問を「道の社会学」といい、現在の皇太子が勉強されていると記憶している。
 
 話を戻す。今回の有安線の道路建設には、小生が先に掲げた、道を作るための「目的」がないと思われる。即ち、地元民に利する将来的展望が見あたらない。(小生は市と東京で面談したとき、地元民として“10分、武生水に早く到着できる”しか理由がない。狭い壱岐で、10分早く着いてどんな意味があるのか質した)。ただ、山野を無惨にも切り開き、1時間に1台の自動車が通過する「7mの道幅、まがりの少ない道」だけが、あるだけだ。
 
 本来、補助金給付には、地元で将来をみすえた確固たる「目的」を確立したので、その目的を実現するために補助「手段」として、道路建設費用が出たものと思われる。ところが現在、「目的」を作るための努力はなく、道路をつくる「手段」だけが形骸化してのこった。「7mの道幅、まがりの少ない道」をつくる「手段」だけが優先され残った。陳腐にも「手段」の「目的化」で終わっていると言えると思う。
 
 小生がここに、たとえ市の提案にそって、先祖から400年相続してきた約1000坪の土地を提供しても、直接地元の将来には、何も利するものはないと思われる。
 なぜならば最初から実現すべき「目的」がないからだ。小生が1000坪の土地を提供して、一番恩恵に浴するのは誰であろう。
 一部の建設業者だけであろう。悪意に言えば、市は建設業者のみのお先き棒をかついでいると言われても仕方がないであろう。(実際、1億円を越すこの事業の何割が建設業者が受け取り、地元民はいくら入手するのであろうか。地権者の小生には、1億円の何分の一を受け取るのであろうか。未だに通知を受け取っていない)
 小生が地元民の将来のためにと思い、先祖から相続した1000坪の土地を提供しても――池の鯉(地元民)に餌を与えたつもりでいても、実際に餌を得るのは、おなじ池にいたアヒルや鴨であったとしたら、どういう選択をするか、誰でも自明の理だと思われる。
 
■今回の有安線道路工事に欠けている3つの要因

①極端なトップダウン方式で壱岐は過疎化の波をくぐれるのか?
 今回、小生が地権者会議4日前までまったく知らされていなかったことに卒倒したが、それでも、育った故郷が、「過疎少子化」の波に直撃されているという危機感があった。口幅ったいが、微力ながら、「ふるさと再生」「島おこし」に参画できるイメージが描けるか、という夢があった。
 しかし、現実の一連の事実を知るにしたがい、それは甘い幻想であることを思い知らされた。
 地権者に対する今回の一連の対応は、とても民主主義下で行われていることとはおもわれない。16世紀、絶対君主治世国家、「ならず者国家」とかいわれる国のみで可能な行為である。市が住民の生命と財産を護るどころか、説明・説得・同意も得ず、小生の実感するところでは、詐欺と恐喝同然で、しかも(道路建設の「目的」も設営せず、ただ道路をつくるためだけに)土地を奪おうとするなど、都会の暴力団でもやらない、言語同断の行為であると愚考する。
 徹底的に住民、地権者の人権を無視し、住民、地権者の声に耳を傾けようとしない市の姿勢には、重大な問題があると思わる。今回の市の徹底的なトップダウン方式では、「ふるさと再生」「島おこし」など出来るはずもなく、このままでは、過疎化から立ち上がる住民の自立意識はいつまでたっても育たないと愚考する。島民の自立意識を育てるどころか、足を引っ張り、過疎化への一層のドライブをかけることに、市が自らが率先して行っていることが最大の問題だと愚考する。

 以下を配慮しない道路工事は、いかがなものかと思われる。
 ・今後の帰趨を決定するであろう 「民の力」を育てる考えなし
 ・有安という土地の価値を高める意思なし
 
②自然破壊の大量生産、大量消費の時代は終わった。いま「地球にやさしい時代」だ。
 さらに愚考することは、「自然」に関する認識の低さである。(以下、思い切り省略して述べるが)戦後日本は戦勝国、アメリカの物質的豊かさに驚き、彼らのような「豊かな暮らし」をしたいというところに目標を定めた。いわゆる「大量製造、大量消費」だ。その端的な例が、田中角栄首相の「日本列島改造論」である。彼の論は、日本列島に幹線道路を造り、地域に工場をつくり、フル稼働それば、日本列島は一大工場になる、というものであった。事実、そのような目的に向かって日本は進み、生産力世界二位までの目標を達成した。ところが、その反動として、水俣病に代表される公害が生じた。その結果、人間には、おいしい水、きれいな空気、したたる緑、蒼い海が、かけがえないものだということを覚った。神様や先祖から受け継いだ土地や山を、山容や海浜が原型を留めないほど、削り取り工場や道を作る乱開発は、過ちだということを知った。地球上を工場化することは、炭酸ガスを発生させ、オゾンホールに更に穴をあけ、紫外線が地球上に大量に降り注ぎ、地球の温暖化につながることに気づいた。地球レベルで乱開発、乱獲をやめよう、いまや「地球にやさしい時代」と京都議定書は世界に向けて呼びかけているだ。
 いま、壱岐の将来を考えると、ブルトーザーで、田中角栄の説くように、先祖伝来の土地を掘り起こし、削る取り「大工場化」「都会化」することでないと愚考する。おいしい水、きれいな空気、したたる緑、蒼い海を保持していることが、これからは、実は最大の「ぜいたく」であると信じる。一見不便と思われることが実は「不便」ではなく「ぜいたく」なのだということを人類は気づいたのだと愚考する。(定年後、帰郷することを想定しているのもそのためだ)
 有安線の道路工事において、将来的な人口動態、交通量の増減をどのように想定されているであろうか。インフラである道路は、少なくとも近50年の将来を見据えて作るべきだと愚考する。わが家の土地1000坪を横断し、地形や山容が変わるような「乱開発」をして実現する「7mの道幅、まがりの少ない道」に、どんな将来的な意味があるであろうか。

③負債国ニッポンを次代にバトンしないために。“平成の大合併”はなぜ生まれたのか。
 (ここでも以下、思い切り省略して述べるが)現在は“平成の大合併”の時代だといわれている。現在、日本は負債国として急速な歩みを進んでいる。いま、壱岐市はなぜ誕生したのであろうか。小泉首相はその誕生において、負債債権国の救世主として登場した。道路公団の民営化をはじめ、世にいう合理化への道は、将来を考えてみたとき、無駄になる経費は、この際、徹底的に削除しようということからスタートしたと愚考する。
 高度成長下、残念ながら地方は、少子高齢化の波をまともに受け、過疎の地域なってしまった。そして地方は慢性的な“補助金行政”でなければ立ちいかない状態になった。今、大事なことは島民の自立的な精神の涵養ではないかと愚考する。今回の市の主導の道づくりは、すべての面で時代の流れに相応していないように思われてならない。

■結論 
①有安線工事において、市は地権者に対して説明・説得・合意する意思が最初からなかったと思われる。市が市民の要望を聞き取り、生命と財産を護ることを使命とするならば、今回の措置は正反対の行為である。職務的、人道的にいかがなものかと拝察する。わかりやすい言えば、自治体のやることとはとても思えない。

②1億円を超すと言われている今回の有安線の工事において、地元・有安触民のために「7mの道幅、まがりの少ない道」をつくるに相応する確固たる「目的(未来図)」がないと思われる。地権者としては、先祖から400年間相続した土地約1000坪を提供することによって、地元の活性化に参画する意義(夢)が、残念ながらまったく発見できない。

③今回の壱岐市の住民、地権者無視の道路計画は、過疎化現象を乗り越えて「島おこし」「ふるさと再生」を目指す壱岐において、住民の自立心(「民の力」)育成という視点から、誠に由々しき、もののすすめかたである。

④要約すると、今回の工事は建設業者のみが大半の恩恵に浴する道路建設といえる。

⑤地権者にとっては、計画全体の通底基音として、どこにも「誠意」が感じられない。


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