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こころを打つことば

 先日、最近、マスコミで人気上昇中の日本語学者の金田一秀穂先生にお会いするすることができました。先生のお祖父さん、京助氏は、啄木の親友にしてアイヌ語学者、父上は国語学者の春彦氏というかたです。アメリカ、中国など、外国生活が長いので外国語と日本語が比較出来、しかも若者ことばに理解が深いというのが先生の特長だと思います。
 
 題して、「自分を語れることば」、特に若者ことばを中心にききました。
 
 ■断定よりもあいまいなことばを好むやさしい世代 

 最近の若者ことば=若者系流行語の特長は、あいまいな表現が多い。ざっとあげると「ビミョー」「みたいな」「よくなくナイ?」「私的には」「てゆうかぁ~」などがあるという。これらのことばの流行は、多分に、連帯を求め、孤立を恐れているという潜在意識があるという。彼らは友達が多いかということを非常に気にするし、たくさんの友だちの中で暮らしている、ということが大切なようだ。当然、彼らは「断言」することばは使わない。要するに相手とトラブルを起こしたくないので、あいまなことばを使うのだという。
 
 彼らは人間関係に敏感で、相手によってことばの使い分けも非常に上手で、全体として「みんなと仲良くしたい」「かわいがられたい」という思いがあり、相手の懐に飛び込むのも上手とのこと。

 一方、親世代の全共闘世代の年代は「すべての大人にノーと言え! 既成事実はすべて悪だ!」と叫び、自分の考えと違うと「ナンセンス!」と断定し、誰に対しても生意気で反抗的だった。そこが若者のよさだったが、いまの若者は、昔より器用で、社会的能力が高いと言えるかもしれない由。即ち、「断定」よりもあいまいなことばを好むやさしい世代のようです。
 
 臨床心理学者の河合隼雄氏は「源氏物語もそうだが、日本の物語は人を殺さない物語が多い」とおっしゃっているが、こうしたやさしい伝統が日本にあり、そのやさしい伝統の甦りがことばに反映され、あいまいな表現が増えてきたことにつながっているかもしれないそうです。
 
 ■なぜことばで自己を語れない
 
 いまの若者たちは、ことばで自己を語らない、語れなくなっているのではないかという声がある。
 一つには友だちとの関係性を大事にするがゆえに、自分と向き合うことをしない、そのため語る自分をあまり見ようとしない――自己を語ることに価値を置かない。彼らが求めているのは関係性で、自己ではない。彼らにとって大切なのは生かされている自分のほうで、生きている自分ではないようです。
 
 日本はそもそも小さいときから「自分の意志をはっきり伝える」という社会ではないとおっしゃいます。金田一先生によると、トーマス・マンにしろドストエフスキーにしろ西欧の作家はバリバリに自己を主張しているが、わが志賀直哉や夏目漱石は西欧ほどには、さほど自己を語っているようには思えないそうです。
 滞米中、自分の息子さんを幼稚園に通わせていたそうですが、かの地では朝、子どもに「キミは今日は何をしたいのか?」と必ず尋ねるそうです。最初戸惑っていた息子さんも、次第に、たとえば「お絵描きをしたい」と言えるようになったようです。そうすると幼稚園では、彼の意志を尊重し、1日中、お絵かきをさせるそうです。
 
 さて、日本に帰ってきてみると、「キミは今日は何をしたいのか?」と息子さんは尋ねられずに、いつも団体でお遊戯やお絵かきをさせれ、ぼくは今日は木登りをしたいのに、どうして団体で、したくもないことをやらされるのと、ストレスが激しかったようです。

 欧米のように、いつでもイエス、ノーを明確に意思表示する社会で育てば「語るべき自己」を持てるかもしれないが、そういう文化を持たない日本では、「語るべき自己」を持つことは当然、身につかないのではないかとは金田一先生の弁でした。
 ただ、欧米的な自己を主張する文化が全世界を覆っている時代にあって、「あいまいな」日本の伝統的なよさ、価値観、考え方を発信していく可能性は高いのではないか。自分の感覚を語るツール(ことば)は貧困でも、やさしい伝統の甦りであると言えなくもない若者ことばを見直してみてもよいのではなかと金田一先生はおっしゃいました。
 
 ■ほんとうに、ほんとうの「自己」とは
 
 さて「いまの若者は自己を語ることばを持たない」と言っている世代だって、ほんとうにことばで自己を語れていたのかと言えば、こころもとないのではないか。学生時代、マルクス、ウェバー、ドストエフスキー、サルトル、鴎外、漱石、太宰治など、親しんでいるうちに、いつしか「自己」になっていったのが実状で、正確にいえば、借り物ではなかったのか。借り物でもなんでも自分が作れてしまうのがことばの恐ろしさで、オリジナルでことばを作る、発見するというのは非常にむずかしい。宮沢賢治、谷川俊太郎のような、すぐれたことばの天才にして初めて出来ること。

 だから、大半の凡人にとって、借りることは致し方がない。ただ借りる相手が問題。いまの若者にはマルクスやサルトルに相当する人物はいないが、村上春樹やよしもとばななのことばで語る人はいる。まあ、このクラスならいいが、借りる相手が『新世紀エヴァンゲリオン』だったりすると、やはりたまらなくなってくるとおっしゃっていました。
  
 ■相手のこころを打つことば
 
 それでは相手のこころを打つことばとは、画素数が大きければ大きいほどよいカメラ――と同じように、語彙、表現力とも多く豊かであればあるほどよいと言える。そのためには単純なことだがなるべく多くの本を読み、語彙、表現力を豊かにすることだ。
 が、語彙、表現力が拙くても、相手のこころを打つことが出来ることがある。たとえば、拉致被害者の曽我ひとみさん。彼女はおそらく16-17歳から日本語から断絶させられ、ほとんど日本語を話していないはず。だから彼女のことばは、日本語の語彙は少なく、大人からすれば貧しいことばということができると思う。しかし彼女が「会えて、うれしいです」と一言が語ることばの重さに感動させられる。そのすごさに驚く。
 ほかに野口英世のお母さんの息子に当てた稚拙な手紙、マラソンの円谷幸吉選手の木訥な遺書など、いずれも貧しい語彙ながら、そこから絞り出されてくることばは、受け手を感動させる。
 これから言えることは、語彙が豊富であることは一応よいことだが、必ずしも最善とはいえない。曽我さんはまず偉そうではない。彼らは謙虚以前に謙虚であり、ありのままを語っている。ちょっと化粧っ気のあることばよりもすっぴんのままのことば、「ありのまま」のことばが、自分を語るべきことばではないだろうか。テクニックなしの素朴なことばが、じつは恐ろしいほどの力を持っていることを忘れてはいけないというのが金田一先生の結論でした。
 
 
 更に詳細は、以下を手にとってご一読いただければ幸いです。
 http://www.tokaiedu.co.jp/bosei/
 
 


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