水盃(みずさかずき)
水盃(みずさかずき)
「水盃」という言葉に、どういうイメージをお持ちになりますか。
『広辞苑』には以下のようにあります。
「酒ではなく、水を互いに入れ合って飲む別れの杯。再会を予期できない時などにする」
私は、つい井伏鱒二の名訳“さよならだけが人生だ”を思い出します。(原詩は、中国の唐の時代の詩人・干武陵「勧酒」)
この杯を受けてくれ
どうぞなみなみ注がしておくれ
花に嵐のたとえもあるぞ
さよならだけが人生だ
最近はメールとか携帯電話の発達によって、再会を予期でない別れなど、なかなか実感としてイメージは出来ませんが、つい50年ぐらいまでには“再会を予期出来ない別れ”が確実にあったように、思われます。
閑話休題。
私の少年時代――昭和20-30年代、九州の片田舎では、宴会・寄り合いなのど酒席は、ほとんど各自宅で開かれ、添付の写真のような盃が、どの家でも使われていました。
実は、5年ほど前、郷里の母から送ってもらった盃が、いま手元に5つほどあります。盃に記された文字を列挙してみます。
①「征露祈念 歩兵四六 柳原」 (日の丸と日章旗が左右十字に組み合わされている)
②「退営祈念 牟田」(赤十字のマーク・日章旗に桜)-同じデザイン、大と中サイズ。
③「祈念 清水 軽き身に重きつとめと 今日の嬉しさ」(日章旗に桜)
④「支那事変凱旋記念 東洋平和に握る銃剣」(銃剣と鉄兜と桜)
裏面(「忠勇」の2字)
⑤「歩兵第十六聯隊 中田」 日の丸と日章旗が左右十字に組み合わされている。陸軍の星のマーク)
子ども時代、これらの盃を大人たちが酒席で使っていたのを何気なく記憶していたのですが、あるとき気づき、盃はどんな時に交わされたのだろうかと思いました。(母親から盃を受け取る前までは)多分、出征が決まった兵士が、親戚、近隣の家に“水盃”のつもりで、配ったのだと思いました。
たまたま懇意にさせていただいている昭和史を執筆テーマに、多くの出征兵士の家族を取材されている作家・辺見じゅん氏に、この水盃のことをたずねたところ、まったく知らないという返事でした。
母から実際に盃を受け取って、文字を見てわかったことは、たしかに出征のときに盃を配ったこともあったかもしれませんが、九死に一生を得て、無事帰還した祈念に配られた方が多いのではないかと思われました。
母はアットランダムに私に盃を届けたと思いますが、①の「征露祈念」とありますから、この柳原さんという人物は、日露戦争に従軍されて、無事凱旋されたのでしょう。
②「退営祈念 牟田」は、従軍されて負傷、入院されていたが、晴れて退院されたのだと思われます。
それぞれの名前は、小生の田舎の近隣にある苗字です。
郷里の家には、この種の盃は100個以上あったと思います。この100年の、日清・日露・太平洋戦争にどれくらいの夫・兄・弟が従軍し、何%が帰還したか、調べていませんので、不明です。
九州の片隅の出征兵士の間には、盃を贈る風習があったという事実だけはたしかのようです。このような盃を作るルートも確立していたと思います。
私の子ども時代まで、酒席は自宅で開かれていましたので、この種の盃が使われていました。いまは田舎でも、大半の酒席は外で開かれますので、この盃を実際に手にすることは、もう殆どないと思われます。
以前のそれぞれの自宅で開かれた酒席では、大人たちは、盃の贈り主の話題をしたことがあると思われますが――そして贈り主は、とっくに亡くなられていると思われますので、盃を贈るならわしについて、言及されることは永遠に葬られることになると思います。
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